「論語」という中国の古い書物があります。孔子(紀元前552年または紀元前551年-紀元前479年)という人の教えを、弟子たちがまとめた本です。その中に次のような一文が書かれています。
学びて時に之れを習う、亦た説ばしからずや
論語「学而第一」01
今では「学ぶ」も「習う」もほとんど同じ意味で使われますが、昔は意味が違いました。
「学」という字は「先生の行うことをマネをする」意味でした。「理解」するための時間ということができます。授業中やレッスンの時間がこれに当たります。スポーツをイメージしてみましょう。やり方を教わったからといって、すぐにカッコ良くできる場合はあまりありません。音楽も同じことです。
「時」は「やれる時はいつでも」の意味です。「ときどき」の意味ではありません。自分で時間を見つける積極性が求められます。
「習」は「何回も何回も復習すること、幾度も練習すること」を意味しました。「定着」させるためのある程度長い期間を指します。授業中練習問題を解いている時間や、家での復習時間、毎日の練習時間がこれに当たります。
「説」は「喜ぶ」とか、「うれしい」を意味するので、「亦た説ばしからずや」は「これまた何と喜ばしい、愉快なことではないか」の意味になります。
つまり、現代語に訳するとこうなります。
「授業やレッスンなどで)教わったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。
この短い文だけでも大切なことがたくさん含まれています。考えてみましょう。
「学」 教わる機会がなかったら? せっかく教わっても理解できなかったら?
「時」 教わったことをその後何も復習しなかったら? たまにしかやらなかったら?
「習」 定着するまでやらなかったら?(よくいう三日坊主) レッスンの時の緊張感が続かなかったら?
「説」 教わることや練習することが楽しくなかったら?
勉強やレッスンで大切なことは、レッスン当日ではなく、どれだけきちんと理解して、その後身に付けるまで練習を続けるか、その瞬間、期間を楽しむことができているかどうかです。